2020年04月02日

お彼岸の日に

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父が3月21日(土)95歳で永眠いたしました。
3月18日の朝5時30分ごろ、入居している特別養護老人ホームの職員に「入院したい」と自分から言ったそうです。ホームのスタッフが、手配をしてくれて、私に連絡が来たのは、午後3時半ごろでした。
 医師や、看護師、相談員、医事課の4名の方から、次々と、病状や、入院手続き、費用、等の説明を受け、父に会いました。
 普段のくたびれた洋服でなく、レンタルのパジャマはカッコよく、酸素マスクしているのに、大きな声で私に話しかけるので、(4人部屋)看護師さんに「お静かにね」といわれてました。
 父はいつものように、片手をあげ、「いつもご苦労さん」「頑張ってな」と握手を求めるので、コロナ騒ぎの時に握手はどうも…とたじろいでいる私に、父は珍しく「しっかり握れ」といい、それが生きている父の最後の姿でした。もしかしたら、父はわかっていたのかも。医師は、「難治度の高い肺炎です。食欲はありますが、それは、食べなければならないという意思の強さだと思います。我慢強い方ですね。高齢ですから、ここ3日間が山です」といってました。
 
5年前にも、緊急入院したことがあり、その時は「今夜が山場です」といわれ、妹と泊まり込みました。人が『死』を迎えるときって、こんなに苦しむのか、ドラマのように、手を握りしめて言葉を残すのではないのだと、その時思いました。一週間ほど前から、好きな新聞・赤旗を開いた形跡がなく、なんだかおかしいなーと思っていた時の緊急入院であり、このまま会話をすることもなく、亡くなってしまうのかと、悔やまれたものでした。
 しかし、そのときは、父の生命力が勝ち、持ち直した後、父は以前より元気になりました。

 今回も 大丈夫だと思っていました。

95歳 家族葬で、お別れ会。5歳のひ孫から小・中・高・大学生、社会人、にぎやかな葬儀となりました。

孫たちが書いたエピソードを 葬儀の司会者が読み上げた。それを聞いて、私は、共働きで、夏休みになると、田舎に子ども達を預けていたことを思いだした。子どもたちのほうがよっぽど、父の事を覚えている。私は、なんと親不孝な娘か。

おじいちゃんとのエピソード。 国鉄引退しても、筋肉がムキムキだった。 すごくきれいな筋肉してた。 あの頃、55歳定年だから、60歳近かったはずなのに。 「忘れ物した」と言っては、「足跡を」と言ったり、「ありません大学」を卒業したといっていて。 冗談ばかり言うおじいちゃんで大好きだった
通信兵として活動していたから、戦地に行かなかなくて済んだという話を聴いたことがある。でも、兵隊数が減ってきてしまって、いよいよ戦地へ行くという時になって終戦を迎えたらしい。 敵のモールス信号を読み取る仕事をしていたから、たしか、玉音放送より早い段階で終戦を知っていたと話していたような気がする。(これはうる覚え) 僕が「おじいちゃんは戦争のことどう思うの?」と聞いたら、「ああいう時代だったんだなあ」と言っていた。「ああいう時代」というのは、「天皇の為に」とか「国の為に」という意味合いを込めた脈絡で話していた。
・・・・・・・

私がきちんと聴いておかなければならないことを、子どもは聞いていた。(私は、これでずーっと自己嫌悪)

コロナ問題で、卒業式も自粛の中、
父の葬儀により、中学3年、高校3年の孫たちは、最後の制服姿で参列。思いがけずに身近に見ることができた。
母は、正月の集まりの時に父とうたった黒田節を 葬祭場の入り口で歌いだす。
それぞれの出来事が、父が仕掛け人のような気がする。
戦前、戦中、戦後を生き抜いた父。8月11日で96歳になる。
そういえば 年男だった。

エレクトーンの上に、ミッキーマウスのヘヤ―バンドが置いてある(鼠年なので)我が家で、
葬儀を終えた後も 孫が弾く「千本桜」「さくら」の曲が流れる中、にぎやかに時を過ごした。

父と過ごした日々を忘れてしまう、親不孝な娘の、反省の気持ちを込めて。合掌
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posted by とんちゃん at 00:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする